失敗学は成り立つか?
創造へのチャレンジがなければ失敗することはない。
ゴム動力の模型飛行機だって今のこどもたちは、自分で組み立て試行錯誤の中で1分間飛ばす経験があるだろうか。このような経験は物つくりの感性を養う。
物つくりにおいて多くの失敗事例が存在し、学問としてさまざまな分野が開拓されてきた。しかし、現に物を作っている段階で失敗学は本当に役に立つのだろうか。小さな失敗や作り直しの理由を公開することは、自分の恥、非力さをさらすことになるので真の原因は闇に葬られているのではないか。
物つくりの過程においてはさまざまな課題に出会い、修正をかけながら仕上げていく。修正をかけるプロセスにおいてすべてのケースを想定し解明していくことは巨大科学でもない限り、行われないだろう。
個人の責に帰す失敗事例は無数にある。しかし、失敗の本音はほとんど聴いたことがない。失敗学はなり立つのだろうか。個人の力量で先人の後姿をみて、失敗と成功の分水嶺のどちらを選び、そして成功率が変わる。成功率の高いエンジニアは、少しだけ重複する実験をおこない、そのなかから自分の描くゴールへの道に繋がる道を選んでいるのではないだろうか。
気づくチャンスの有無は個人のセンスによることが多い。これを責めることはできないと思う。相反する要求を解消するバランス感覚と異分野の知識との融合が、より高い次元での矛盾解消に繋がると思う。公開されたエンジニアの足跡として特許があるが、多くの特許が成立しても日の目を見ない。ビジネスとして工学として美しい特許が成功への道を示しているのだろう。
真の失敗学のあり方を今後時間をかけてもっと考えてみたいと思う。
今日は感覚的に今の時点で思うがままに書いた。
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