暗黙知
あんもくち(tacit knowlege)は、勘や直感、経験に基づくノウハウとされている。
2007年問題=団塊の世代の退職に伴う技術・技能を継承するための手法として、「暗黙知」から「形式知」への変換が提唱されて久しい。
暗黙知は、個人の過去の経験とその分野での試行錯誤の結果得た個人的戦略であると思う。学術論文のように、再現可能な状態で定量性を持った証明可能な世界ではない。特定の個人にとって、自分には確からしく、その指針に沿って自分は行動し、一定の成果を挙げてきた指針が「暗黙知」ではないだろうか。
暗黙知を形式知にするには、少なくとも暗黙知の背景にある経験とそれなりの論理思考過程を明らかにして書き残さないと意味がない。単にこの場合はこのようにすればよい結果を得ることができる、という形式知識は百害あって一理なしと私は考える。論拠のはっきりしない、長い経験によるノウハウと称する知識は変革がむづかしく、モデル化もされていない。従って、その暗黙知を変えるには膨大なエネルギーを必要とする。将来の知識の発展のためにはどうしても根拠の開示が必要だと考える。
ブログでは、曖昧な部分を含んでいても公開は可能だ。学術論文になればそれなりの検証と証明が必要になる。1冊の本をまとめるとなると、先人の書かなかったあるい書けなかった視点を公開することになる。
暗黙知は形式知に変換できるか? 変換のためには少なくとも暗黙値の所有者の持つ背景までを記録に残さないと、継続的に成長可能なデーターベースの構築に繋がらないように思える。
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